このような言葉を見聞きすることがあります。

未来は知る由がないからこそ、作る自由があるのだ。
どんな未来がやってくるのか?は分からないが、どのようにあるか?を作ることができるのだ。
未来を創るために、今、目の前のことが大切なのだ。

心が弱っていると、「今、目の前のこと」にどうしても未来を見いだせないことがあります。
このような「もっとも」な言葉であると、なかなかにやりきれなくなるものです。

とはいえ、たしかに未来は知る由もありません。
明日、戦争が起こるかもしれません。ミサイルが日本に飛び込んでくるかもしれません。あるいは地震・洪水の被害に見舞われるかもしれません。それは決して「ない」と断言できることはできません。

けれども、だからといって毎日危機意識をもちながらビクビクしながら暮らさなければならないのか?といえば、そういう状況に直面していない以上、それもできないのです。

「未来」という言葉を使うと、1年も10年も先のことを想像してしまうかもしれませんが、そんな長期ではなく、もっと短期に、24時間後、6時間後、1時間後、あるいは1分、1秒後も「未来」です。

長期で見れば、「将来」という言葉が似あう「未来」も
短期でみれば、「今」と見紛う「未来」も

 

そんな「今」を生き、「未来」を創る人たち全員に、ぜひ読んでもらいたい1冊があります。
「それでも人生にイエスと言う」V.E.フランクル著です。

 

この本は、強制収容所から解放された後、1946年に著者が行った講演の内容がもとになっています。「自分自身の人生に責任を持つこと」について書かれている本でもあります。
そして、「生きるとは?」を真正面から問いかけてくるのです。

強制収容所でのことが語られているため、重たい話もあるかもしれません。けれども、この本には希望があります。どんなことも自分の決断にかかっている、という本書は、つまり、自分次第でどうにでもなる、という意味を含んでいるからです。

けっして楽観主義的なお話でもなく、悲観主義ばかりのお話でもありません。しかし、私たちの想像をはるかに超える体験を経た著者が語る「どんなことも自分で決められる自由がある」という言葉は、私たちは既に自由である、ということを認識せずにはいられないのです。

 

著者はいいます。

「ほんのささいな決断でも、きわめて大きな決断でも、すべて永遠の意味がある決断です」
「一つの可能性を選ぶということは、それ以外の何千もの可能性を「永遠」に存在しないことにすること。それでも決断がすばらしいのは、全ての未来は瞬間ごとの自分の決断にかかっていることを知ることです」
「こんにち、ほんとうは比べることはできないとはいえ、比較的ましな状況にある私たちが行いに移せないわけがありましょうか。人生はそれ自体に意味があるわけですから、どんな状況でも人生にイエスと言う意味があります。そればかりか、どんな状況でも人生にイエスと言うことができるのです」
「人間はあらゆることにもかかわらず、人生にイエスという言うことができるのです」

と。

 

強制収容所のような自分が想像もつかない体験を得たひとの言葉や、実際に戦争や災害などに遭われた方の話を聞くと、、「私はその人みたいに強くない」と呟いてしまうことがあるかもしれません。それでも、自分とは全く違うから、自分には関係ないから、と遠ざかるのではなく、ときどき、それを自分の「今」に反映してはどうかと思うのです。

 

すべては自分が作っている、と知り意識をすれば、どんなときも最善の決断をすることができるでしょう。

いや、むしろこういうべきでしょう。

一生懸命にやってきたあなたの「目の前にある」ことが、最善の決断の結果だったのです。
心が弱ってしまったのは、弱らせる、という「今」に必要な最善の決断をしたのです。

それに気づいた、ということもまた最善を尽くした証。
ここからどのように振る舞うのかも、最善の決断しだい。

 

ぜひ本書から、あなたなりの「イエス」を得てみてください。
あなたはきっと、「今」の景色と違う「今」を眺めることになるでしょう。

 

※読書後に、ぜひあなたの感想もお聞かせください。読活交換いたしましょう!!

 

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